Ep35 【変化・キーオ視点】
役所から貰った書類とエル君に準備して貰った書類をそれぞれ封筒に入れ、僕はそれをしっかりと携える。
そして、今度は出立の扉をくぐった。
「キーオさん、オレからは誰にも言いませんから!」
扉が閉まる瞬間、エル君がそんなことを言って手を振っていた。
(そうか…結婚すると周りの人に報告しないといけないのか……)
僕はそんな当たり前のことを失念していた。
けれど、数日前までは本当にそういったこととは無縁の人生を歩んでいたのだ。
だから、そんな当たり前のことに考えが至らなくても別に不自然なことではないのかもしれない…
扉が閉まり、目の前の扉が消えて行く…僕はそれを見届けると背後を振り返る。
町の一画に設けられた人工的な林の中…協会の機密を隠すには丁度いい場所だ。
そして、僕は駆け出す。 少しでも早くあの人の元へ。
夜の町、人通りはまばらでどこか寂しさを感じさせる…けれど様々なお店の灯りが優しく、暖かく、町を、人を照らしている。
時折、人々の笑い声が聞こえる…お酒を飲んで楽しく話でもしているのだろう。
いつか、彼と一緒にあの輪の中へ入って行けるだろうか…どこかの酒場に立ち寄って一緒にお酒を飲んで、他愛ない会話をして、そうして笑って…
僕があなたと結婚したいと…そう伝えたら彼はどんな顔をするだろう。
本当は何も言わず、伝えず……彼にこの書類に名前を書いて欲しいと…僕はそう思っている。
けれど、そうすると彼とはもうあの輪の中には入って行けない気がして……
(なんて説明したら、彼は納得して頷いてくれるのかな……)
仰いだ夜空には丸い月がぽっかりと浮かんでいた。
ホテルに戻ると僕は彼が嫌がっていた昇降器に乗り込む。
ちなみに彼を抱えてホテルに戻って来た時は一応階段を利用した。
もしも、この中で彼が目覚めたら…そう思うととても利用することが出来なかったのだ。
けれど、僕1人の時はやはりとても便利だと思うので今はそのようにしている。
結婚してずっと2人で生きて行くということはきっとこの昇降器のようにお互いの価値観がすれ違い、時にはぶつかり合うこともあるのだろう。
それが原因で激しくケンカをすることがあるのかもしれない、二度と口を効くものかと頑なになることもあるのかもしれない…
けれど、彼を一生失ってしまうのだと悟った幾度かの時……僕はそんなことを彼としてみたかったと思った。
彼は何が好きで、何が嫌いか…そして僕は何が好きで、何が嫌いか…訊いて、伝えて、話をして……お互いを知って行きたかったと思った。
だから、僕はもう二度と彼を失わないように…彼との絶対的な関係が欲しいと考えた。
だから、順番を間違えている…ということは僕自身もよく理解した上で僕は彼と結婚したいと思っている。
そう正直に話したら…彼は納得してくれるのだろうか…
なんて考えていたら、ポーンという音が昇降器内に響いて扉が開く。
ホテルの8階、僕は昇降器を降り、左手側へと進む。
無意識に横目で各部屋の番号札を確認しつつ、目的の部屋へと足早に…
808号室。僕はポケットに仕舞っていたカギを取り出し、それをカギ穴へと差し込み、回す。
すると小気味いい音が鳴り、カギを引き抜き、ドアノブを回し、扉を開ける……
色々な話をしよう…僕の考えを、気持ちをちゃんと伝えよう。
そして、この手に彼を抱きしめ―――
「!」
玄関扉が開き切ったその瞬間、僕は視界に僕の胸に飛び込んで来る彼の姿を捉えた。
けれど、それをきちんと自覚する前に僕の胸に彼の体が、彼のぬくもりが伝わる。
「おかえり、キーオ…っ」
彼がそう言いながら、僕の背中に手を回す。
その手はまるで僕を、僕の存在を確認するように…彼の小さな手のひらのすべてで僕に触れていた。
「……」
そして、僕は自覚する。
そうだ、もう何も迷わなくていい…彼ももう…僕と同じ気持ちでいてくれているんだ…
「ただいま、トナさん」
そう言って僕は持っていた書類を手放し、彼と同じくらい彼を抱きしめた。
Ep36 【彼らの気持ち・キーオ視点】
抱きしめ合っていたその場所がホテルの廊下だと気付き、僕は彼に急かされるまま部屋へと入る。
そして彼に促されるまま、僕はコートを脱ぎ、ベッドへと誘われた。
そうして、今…
「……」
僕はベッドに座った彼の太ももを枕にし、そしてさらに彼に頭を撫でられている。
「……」
何だろうか…この幸せすぎる状況は……頬に触れる彼の太ももの…いや、着衣越しではあったが、それでも彼の太ももの温かさと弾力が心地いい。
僕の頭を、耳を、頬を、首を、そして髪を梳くその手の流れもとても心地いい。
そして、僕を見つめる彼の大きな青い瞳が…とても愛おしげに僕を見ているような気がして……僕は思わず彼から視線を反らしてしまう。
「……悪かったよ」
「え?」
「なんか……そろそろ戻って来るかなって様子を見に行こうと思ってよ…
玄関まで何とか移動したら…カギが開く音がして……」
「……」
「タイミングが良すぎるな、とは思ったけど…でも……扉が開いたらやっぱりそこにお前がいて…
そしたらその…思わず感極まったと言うか……」
「トナさん…」
「だから悪かったよ…なんか自分の感情が上手くコントロール出来なくて、
お前にまで恥ずかしい思いさせちゃって…」
そう言って恥ずかしそうに僕から視線を反らす…そんな彼を見ていたら僕の胸に邪な気持ちが芽生えたが、今はその時ではないと自分を厳しく律する。
「いえ、大丈夫ですよ…僕は恥ずかしい思いなんてしてません」
「けど…」
「僕はむしろ、トナさんが出迎えて下さったことが堪らなく嬉しかったです」
「……」
「ですから、僕を出迎えてくれてありがとうございます」
「……」
僕がそう言うと彼は僕を見た。
けれど、まだどこかバツが悪そうな顔をしている…僕は僕の頭に添えられている彼の左手を取るとその指に口づけをする。
「!」
すると、彼の体が一瞬震えた。 そしてみるみるうちに顔が赤くなって行く。
「トナさん、今恥ずかしいですか?」
「は! は、恥ずかしいに決まってんだろ……!」
「じゃあ、これでおあいこです」
「!」
僕がそう言うと彼は、顔を真っ赤にしたまま何か納得がいかない…と言った顔になった。 そして…
「!」
彼はゆっくりと体を折り曲げると僕の頬に口づけをした。
おそらく、彼が僕の唇以外に口づけをしてくれるのは初めてではなかったか…?
そう思ったら僕は感慨深さよりも先に驚きの感情の方が勝ってしまい…
「お前もやっと顔が赤くなったな……これでやっとおあいこだろ」
と彼は言ったが、おそらく今の彼の方が僕よりももっと赤くなっていると思う。
「……ふふ、」
「! な、なんで笑うんだよ!」
「いえ、だってこんなやりとりをまたこうして出来るなんて……夢のようだと思って」
「……」
「けど、これがちゃんと現実だということは理解しています…
だって、僕はあなたとこんな時間を過ごしたくてあなたを取り戻したんですから」
「キーオ……」
僕は右手を彼の頬に添える。
「トナさん、好きです」
「……うん」
「大好きです」
「…うん」
「愛しています」
「うん……」
彼の頬を伝った涙が僕の頬にこぼれる。
温かくて、けど冷たくて……それがとても心地よかった。
だって、僕はそれが嬉しかったのだ。
「僕の気持ち……受け入れて下さるんですね?」
「うん……」
そう、つまりはそういうことなんだと理解出来て嬉しかった。
そして、彼は再び体を折り曲げ、今度はその両手で僕を包み込み、
「オレも、お前のこと…キーオのことが一番温かいって思ってた……」
「!」
「今まで出会った誰より、お前が一番大事で愛しいって……」
「トナさん…」
「そして、お前はオレを助けてくれたんだ……あの魔獣やあの記憶から……
だから、だからもうオレは…お前に嘘はつかない……オレ自身を騙すこともやめる……」
「……」
僕を包む彼の震える手に僕は手を添える。
「好きだ……オレもお前のことが好きだよ…初めて、お前の顔を見た時から本当はずっと好きだった…」
「!」
「だから、あの時のあの言葉は全部…嘘なんかじゃなかった、全部オレの本心だった……」
じゃあ、あの時から僕とトナさんは本当に……
「けど、オレは…お前に好意を抱いて貰えるような人間じゃないから……
だから、お前の障害にならないようにってずっと誤魔化し続けて来たんだ……」
「トナさん……」
「だから、今さら勝手だってことは分かってる……
けど、オレもこうしてまたお前を抱きしめられて嬉しいよ……」
「……っ」
もう、僕の頬にこぼれる涙がどちらのものか分からなくなっていた。
嬉しいのに…ただ嬉しくて、今にも舞い上がりそうなのに僕は涙をとめられなかった。
それくらい僕に対する彼の気持ちは真っ直ぐで…けれど、どこか不器用で……僕はそんな彼からの気持ちを1つ、1つ、じっくりと噛み締め、そして胸へと刻んだ。