Ep07 【宿にて・キーオ視点】
降り出した雨の中を僕の歩調に合わせて、その人…“トナさん”は一緒に駆けてくれた。
トナさんが宿泊を予定していた宿に着くとそこのご主人に掛け合って何とか2人で一人部屋に泊まれるように話をしてくれた。
そして部屋に着き、謝罪した僕に気にするなとまた優しくタオルで髪を拭いてくれた。
ご自分も雨に打たれてしまったというのに、僕に先に洗面所を使うようにと勧めてくれた。
そして、僕は今部屋に併設された洗面所の洗面台の前に立ち、鏡に映った自分の姿を見ている。
(酷い顔だな…浅ましさが顔に出てる…)
トナさんにどれほど迷惑を被らせたか…よく理解している。
けれど、どうしても彼と一緒にいたかった…彼と別れたくなかった。
この町で別れてしまったら…もう二度とトナさんとは会えなくなる気がして…邪魔者だと思われてもいい、思慮の浅い半端者の魔術師だと思われてもいい…ただ、せめて今夜一晩だけ…彼と一緒にいたかった。
何をするわけでもなく、ただ今夜一晩だけを…
洗面所から出ると、トナさんは窓際の椅子に座りボーッと町を見ていた。
そして僕はそんな彼を少しだけ観察する…
装備を外し、室内着になったトナさんはその顔に似合わず結構筋肉質な体つきをしていることが分かった。
「すみません、洗面所を先にお借りしてしまって…」
僕がそう声を掛けるとトナさんはこちらを振り向いて、
「だから気にするなって」
と言ってくれたので、
「はい、ありがとうございます」
と僕も言葉を返した。 すると、僕の目の前で突然トナさんが着衣を脱ぎ始める。
僕はなぜかその行動に心底驚いて、
「あ…」
と思わず声を漏らしてしまった。
「? なんだよ、どうしたんだよ?」
トナさんが不思議そうにこちらに問いかけて来るので僕は色々と誤魔化しの言葉を考える。
「いえ…その、トナさん…その傷痕は…?」
「え?」
けれどいい言葉が浮かばず、僕はとっさにトナさんの脇腹の傷痕を指差してしまった。
トナさんも僕が指差した、ご自分の脇腹に視線を落とす。
「ああ、これは……まだオレが駆け出しの冒険者だった頃にちょっと無茶してつくった傷だな」
「無茶?」
「うん…まぁ、右も左も分からない頃だったからな、ちょっと魔物の巣窟に入っちまって、それでな」
魔物の巣窟…“それでな”の先を聞きたいような…恐ろしいような…
「魔術師の方に傷を治療してもらったりしなかったんですか?」
「はは、そんなこと頼める魔術師の知り合いなんかオレにいるわけねぇだろ?」
「……」
そうか、だからこそトナさんはお一人でも魔物に立ち向かえるよう鍛錬を重ねられたのだなと…僕は納得した。
「それにこんくらいの傷、傷薬塗っとけばしっかり塞がるからよ…って、何でお前がそんな顔すんだよ」
「いえ…本当にそうですよね」
「ちなみに他にも傷痕はいっぱいあるぞ、ここも、ここも、ここも…ほら、後ここも」
「と、トナさん!」
「はは、わりぃわりぃ」
そう無邪気に笑いながらトナさんは洗面所へと向かわれた。
あんなに無邪気に笑う、強くて、優しくて…そしてとても綺麗な彼に…
僕はなんて邪な感情を抱いているのだろう…
僕はそれ以上トナさんと接触するのが怖くなり、もう眠ることにした。
トナさんが体調不良の僕を気遣って下さって、ベッドは僕が使うようにと言ってくれた。
けれど本当はもう僕の体調なんか万全なのに…でも彼を欺いてここまで押し掛けた手前もう体調は万全だからトナさんがベッドを使って下さい、とは言えるわけもなかった。
ベッド横に置かれたランプの火を吹き消す。
すると部屋のこちら側はすっかり暗くなり視界が奪われる。
そのせいで急に聴覚が鋭くなったようで外の大雨の音がよく聴こえて来た。
もしかしたら明日もこのまま雨かもしれない…
もしかしたら明日もトナさんはこのままこの部屋に居ていいと言ってくれるかもしれない…
僕はまたそんな邪なことを考えてしまい、軽く頭を左右に振ると布団に潜り込んだ。
トナさんとは今夜一晩を過ごすだけ…もう明日からは関わらない方がいいんだ。
そう思いながら目をつむると、洗面所からトナさんが出て来る音がした。
荷物を慎重に漁っている音が聞こえる…きっと、僕がもう寝てると思ってそう行動しているのだろう。
それから何か瓶類をテーブルに置く音が聞こえる…もしかしたらお酒でも飲まれるのだろうか…と思ったが、急にあのいい匂いが部屋全体に充満するのを感じ、僕は暗闇の中、目を見開いた。
トナさんの方へ視線を向ける…
テーブルの上のランプは灯したままにしていたのでトナさんの姿をこちらから窺うことが出来た。
トナさんはこちらに後ろ姿を見せた状態で右肩から何かを剥がしているように見えた。
あれは…湿布だろうか。 もしかしたら、前日に負った傷の確認をしているのかもしれない…
ということは、このいい匂いの正体って…
それからトナさんは再び荷物を漁り、中から白い布を取り出した。
それを右肩に当てる…しばらくそうした後トナさんは再び洗面所へと向かわれた。
先ほど右肩に当てていた白い布は…テーブルの上に置かれている…
僕はもう…無意識のうちにベッドから起き上がり、テーブルへと歩き出す。
そしてその白い布を手に取り、赤く濡れたその部分を鼻にあてがい大きく空気を吸い込む…
「き、キーオ…?」
ゆっくりと…そちらに顔を向けると洗面所から出て来ていたトナさんが僕を見て、顔を青ざめさせていた。
「トナさん…」
僕はもう何だか心地よくて…そんなトナさんの反応があんまり気にならなくなっていた。
「キーオ、お前…その手ぬぐい…」
トナさんが指を震わせながら先ほどまで自分が使っていた手ぬぐいを指差す。
「なぜ、でしょうね…」
「え?」
「なんだか、いい匂いがするなって思ったら…この手ぬぐいを手にしていて…」
「いい匂い?」
「はい…僕が今まで嗅いだことのない、すごくいい匂いがしたんですよ…」
僕がそう言うと、トナさんはこちらを向いたままゆっくりとご自分の荷物に近づいて行く。
「…キーオ、お前、本当に体調が悪いんだな?
だったらもう…ほら、休んだ方がいいぞ? その手ぬぐいは貸しといてやるから」
そう僕に言葉を掛けながらトナさんは後ろ手でご自分の荷物を漁っている。
おそらく何か武器を携えるつもりなのだろう。
ああ…敵視されてしまったのか……いや、トナさんのその判断は正しい…
だって手ぬぐいの匂いを嗅がれてあんなことを言われたら、当然誰だってそう判断すべきだろう。
けど、けど…
「トナさん、僕のことが怖くなりましたか?」
僕は本当に自分勝手なんだけれど…トナさんにそう判断されたのがとても悲しかった。
「え…」
「けどそうですよね…こんな大柄の男が自分が使っていた手ぬぐいの匂いを嗅いでたら、そりゃ怖いですよね」
「……」
一瞬、僕に同情的な表情をしたトナさんだったが僕のその言葉にまた引きつった笑みを浮かべた。
「けど、僕も本当に不思議なんですよ…」
「? 不思議…?」
「えぇ、不思議なんです。 だって僕は今までこれを…
こんなにいい匂いだと感じたことは本当に一度もなくて…」
「これって…手ぬぐいをか?」
僕は首を横に振り、握りしめていた手ぬぐいをトナさんに見えるように広げ、そこに付着していた“それ”を指差す。
「“血”ですよ」
「…は?」
僕がそう言うと、トナさんの大きな目がさらに見開かれる。
「僕、今まで父や先生に血を貰っていたんですけど、2人の血をいい匂いだと感じたり、
美味しいと思ったことはなかったんです」
「血を、もらう…?」
「他にも任務中に傷ついた先輩たちの血の匂いを嗅いだことがありましたが、
やはりいい匂いだと感じたことはなくて…」
「いやいや…ちょっと待ってくれよ…そんなこと急に言われても、オレはどうしたらいいか…」
「あ、そうですよね…こんなこと急に言われても、余計に怖いだけですよね」
僕は自分の話の脈絡の無さに気付き、まずは何から話したらいいだろうかとしばし熟考する。 そして、
「えーと…まずは大前提として、」
「あ、ああ…」
「僕が“人と悪魔の混血児”ということを理解しておいてくれますか?」
「!?」
僕の両親について打ち明けたら、トナさんはもう何と形容したらいいか分からないお顔をされていた。
Ep08 【キーオのこと・キーオ視点】
それから、僕は自分の出自について…出来るだけ簡単にそして分かりやすくトナさんにお話しした。
けれど、トナさんは元々魔術とか悪魔とか…そういったものとは縁遠い環境で育って来られた方だったので、僕の話についてどれだけ正確に理解して貰えたのかは僕では知る由もなかった。
けれど、トナさんはトナさんなりの理解を示して下さって…僕はそれがとても嬉しかった。
そして僕はもう…そんなトナさんに怖い思いをさせたくないと思い、実はもう体調は万全であること、ここまでついて来たのはあなたの優しさにつけ込んでいただけだということを話した。
すると、トナさんは…どこか神妙な面持ちで僕のことを見ていた。
(はい、分かってます…僕はもうここから出て行きますから…)
僕は名残惜しい気持ちをぐっと堪えてベッドから腰を上げ、自分の荷物の方へと歩き出す。
すると、トナさんが、
「? おい、どこ行くんだよ」
と僕に声を掛けて来た。
「もう体調もすっかりよくなりましたから、任務を続けて来ようかと」
僕がそう言うとトナさんは急に怖い顔をして、
「は!? おい、今外は大雨だぞ!」
「はい、そうですけど…」
「そんなものは雨が止んでからでいいだろうが!」
と、なおも僕の心配をして下さっているようだった。
「けど、もうこの部屋にはいられませんし、今から取れる宿もあるかどうか…」
「ん!? いや、ちょっと待て! なんでこの部屋にいられないんだよ?」
「だって、トナさん…僕みたいな気持ち悪いヤツとはもう一緒にいたくないでしょう?」
「はぁ!?」
トナさんは椅子から立ち上がり、今までで一番大きな声を出された。
「と、トナさん…今、夜ですから!」
そんなトナさんの声に驚いて僕は思わず彼を宥めようとした。
けれど、それは却って逆効果だったようで、
「うるせぇ! 分かってるよ! けど、お前、お前な!」
トナさんはより怒りの形相になり、さらに拳を固く握りしめて肩を震わせている。
なぜ? なぜ、僕が出て行こうとしただけでそんなに…
「オレはお前のこと、一度だって気持ち悪いなんて思ったことなんかないぞ!
そりゃ、さっきはあんなことされて、言われて、ちょっとはこえーと思ったし、警戒はしたけどよ!」
「と、トナさん…」
「けど、オレはむしろ初めてお前の顔を見た時、すっげー綺麗な人間がいるもんだなと思ったよ!」
「え…」
僕が…綺麗?
「だから、もう少し見てられないかと思って、色々世話焼いてやったんだよ!」
「トナさん…」
「だから、お前がオレに対して悪いことしたなんて思わなくていいんだよ…!
オレだって、お前と同じくらい…いや、オレの方がよっぽど理由がアレで…」
トナさんの怒りがだんだんと薄れて行く…そして、最後にはもう上手く言葉が出て来なくなったようで、視線を僕から外し、しばらくあちらこちらに視線を泳がせ、最終的に床に視線を落とした。
何か言ってはいけないことを言ってしまったと焦っている様子のトナさんを見て僕は、
(あぁ、僕が自分自身を卑下したから、トナさんも同じところまで堕ちて来てくれたんだな…)
と理解はしたが、したのだが…どうしても彼の言葉をそのまま鵜呑みにしたくて、堪らなくて…僕はトナさんへと歩み寄り、その体を抱きしめた。
「え…」
僕の胸の辺りからトナさんの驚いた声がする。
「トナさん…嬉しいです」
「え?」
「それじゃあ、僕たち…もう、お互いに想い合ってるってことですよね」
「え!?」
トナさんのこの驚き様…やっぱりトナさんは僕の方から彼を拒絶するように仕向けようとしてたんだ。
変な気遣い…でも、きっと僕が罪悪感を抱かないようにってそうしてくれようとしたんですよね?
だけど僕はそんなこと絶対にしない…トナさんから僕を拒絶してくれていたら、今頃こうやって男に抱きしめられることもなかったのに…
なんて僕が考えていたら、今まで行き場を失っていたトナさんの両手が僕の背中に回された。
こう、両手でぎゅーっと締め付けて来る感じじゃなくて…僕の体に…ちゃんと触れるように手が添えられていて…僕はトナさんの体の熱をお腹側で感じて、トナさんの手のひらの熱を背中で感じている…もしかしたら、さっきのトナさんのあの言葉は出任せなんかじゃなくて、本当にトナさんの本心だったのかもしれない。
僕はそう思ったら…なんだかとても舞い上がってしまって、何の迷いもなくトナさんを抱え上げると彼をベッドまで連れて行き、ベッドへと座らせた。
すると、何かを悟ったようにトナさんが顔も体も強張らせて、
「あ、ちょ―――」
と何かを言い掛けた。
けれど、さすがにそこまでは…と思った僕はとりあえずトナさんのそれぞれの手に僕のそれぞれの手を合わせ指を絡めながら、彼をベッドに縫い付けた。
「…っ」
また、彼の大きな目がより見開かれている。僕はその目をじっと見つめ、顔をほころばせる。
「ねぇ、トナさん…」
「は、はい!?」
そう声を掛けながら顔を近づけるとトナさんはぎゅっと目をつぶってしまった。
その顔を見て僕は…本当にこのまま唇を重ねてしまおうかと思ったけど…さすがにそこまでは…と再び思い直し、トナさんの右肩に視線を移す。
「この傷…舐めてみてもいいですか?」
「…………! …? …!? は?」
そんな僕の言葉を聞いてトナさんはとても驚いたようで、再び大きく目を見開いていた。
「本当は体調ももう万全なので血を飲む必要もないのですが…
けど、どうしてもトナさんの血の味を確かめておきたいんです」
「そ、そん…そんなこと…っ」
「あ、もちろん味を確かめ終わったらちゃんと傷口を清潔にして、治癒術で治しますから!
だから…ぜひ、お願いします…!」
トナさんが想定していた行為とは異なることを提示し、その上でこういう言い方をしたらトナさんはきっと受け入れてくれるんだろうな…と僕は思った。
けれど、さすがのトナさんも逡巡しているようだ…だけど、僕の視線に気付いたトナさんは僕の顔をしばらく見つめた後、
「…………はぁー…別にいいよ」
と言ってくれた。
おお…読み通り…と僕は思ったが、
「え!?」
と、一応驚いてみせた。
「けど、傷を舐めるためなら…何でベッドに運んだんだよ…?」
「それはこういう形の方がトナさんへの負担が軽減されるかと思いまして」
「負担も何も、肩の傷舐めさせるだけだろうが…」
「えへへ…そうですよね…」
僕はそう言われて思わず笑ってしまう。
「本当は僕が…ただもっと全身でトナさんを感じたかったんです…」
「…!」
両手をトナさんの両手から放して先ほどまでそうしていたように…もう一度両手でしっかりトナさんを抱きしめる。
僕より頭一個分身長が小さくて、小柄な彼だけど、抱きしめた体が頼りないとかそんなことは全くなくて…むしろ、トナさんの方が僕の体を貧弱に思っていないだろうかと不安になるくらい、彼の体はがっしりとした筋肉で覆われている。
けれど体のあちこちが傷痕だらけで…少し思うところもあるけど…でも、今こうして彼を抱きしめていられることが何より嬉しい。
「ねぇ、トナさん、」
「ん?」
「痛かったら言って下さいね…僕、ちゃんと言うこと聞きますから」
「うん、まぁ…オレ、我慢強いからな…」
「いえ、そんな、我慢しないで下さいね…?」
「お、おぅ…分かったよ…」
そうやって言葉をいくつか交わした後、僕はトナさんの右肩を肌着から露出させる。
何か鋭い爪や刃物で傷を負わされたような…そんな傷だったが、もう傷口自体は塞がりかけていてすでに血も止まっているようだった。
僕はその傷にそっと唇を当てる。
それから、さらに慎重になって舌を這わせてみた。
一瞬トナさんが身震いしたが、僕はそのまま舌を傷に沿って動かしてみる。
今まで飲んだどの血とも違う…まるであの時貰った飴玉のような…そんな甘みを感じて僕は驚いた。
思わず夢中になって何度も何度も傷に舌を這わせる。
本当ならこの傷を開いて…もっと…ちゃんと血を…
「!」
と、そんな危ないことを考えていたらトナさんの右手が僕の後頭部を撫で始めた。
僕は今の考えを悟られたのかと思ってトナさんの顔を見たが、トナさんはただ静かに微笑んでいた。
「痛くねぇから、続けろよ」
僕はその言葉にぎゅっと胸を締め付けられて…思わず彼を強く抱きしめたくなった。
けれど、彼の好意を無碍にしてはいけないと思い、ただ彼の傷に舌を這わせ続けた。
そして今なら分かる…先生の仰っていた僕の運命とは“この人に出会うこと”だったんだと…